エバーグリーン(試し読み)

エバーグリーン

みどり/原案・校正・協力
伴美砂都/構成・文




 校舎に沿って植えられた桜が満開に咲くのはほんの一週間ほどで、四月の半ばにも届かぬうちにもう花は散り、いつしか気まぐれに降った春の雨に追われるように落ちた花弁が、遊歩道の隅に茶色く縮こまる。頭上にはすぐ葉が茂り、少しずつ強くなってくる日差しを透かす。
 散っちゃったね、と毎年だれかが言う。そしてすっかり緑になってしまえば、歩くとき見上げる人も少ない。ああ、緑になったな、と思いながら、わたしはそこを通る。


 立志小学校は、新興住宅地を中心とした校区のほぼ真ん中にある。校舎はコンクリートの打ちっぱなしで、外から見ると学校というよりは背の低いビルみたいに見える。
 教室はオープンスペースで、廊下はむかしながらのゴムのような素材ではなく、ぜんぶフローリング。赴任したときにはびっくりしたが、今の小学校は、こういうデザインのところが多いみたいだ。昇降口の扉はオレンジ色と黄緑色に塗り分けられていて、丸い窓がついている。
 立志、という名前は、明治時代に学制が公布されて全国に小学校がたくさんできた頃には、あちこちでみられた学校名なのだそうだ。職員室の隅でほこりをかぶっていた郷土史に、そう書いてあった。
 その当時は、市内にも立志小学校という学校があった。でも、こことは別の場所だ。この学校ができたのは、今から十数年まえ。宅地開発に伴って新しく校区をつくるとき、今はもう市内に存在しない立志という名前をなぜかつけた。
 だから、むかし立志小学校だった学校は今は別の名前になっていて、むかし存在しなかったこの学校は、今もう全国にもあまり残っていない、立志という名でここにある。
 大空のもと こころざし立てて、という校歌の歌詞は歌い出しのそこだけおぼえていて、後ろに行くほど曖昧になっていく。

 学校の朝は早い。始業時間は八時なのだが、事務職員のわたしが七時半すぎに職員室に着くころには、ほとんどの先生たちがもう出勤している。子どもたちが登校してくるのは八時すぎからで、八時半にはもう、それぞれの教室で朝の活動が始まる。
 その時間、わたしは自分の席で子どもの遅刻や欠席連絡の電話を取って担任の先生に伝えたり、市の教育委員会から届く書類を担当者ごとに振り分けたり、学校の代表メールを確認して、これまた担当者ごとに振り分けて転送したりする。そうこうしているうちに先生たちは皆、教室へ行き、気付けば職員室はがらんとしている。

 ガラス張りの職員室の窓から、廊下を子どもたちが並んで歩いて行くのが見えた。今日は全校集会の日だ。この学校の体育館は二階の、職員室から奥へ少し歩いて行ったところにある。しばらくすると校歌を歌う声が、かすかに聞こえてくる。
 立ち上がって、職員室の端にある給湯室に入り、ポットに水を入れてコンセントにつなぐ。洗って乾かしておいたコーヒーメーカーは布巾で軽く拭ってセットし、ポットの横へ。前日に漂白剤に漬けておいた洗い替えの布巾を水洗いして、シンクの上に物干し代わりに取りつけたつっぱり棒に掛ける。五月の連休がおわって、外はもう暑いほどの気候になった。そろそろ、冷たいお茶を作っておかなければならない時期だ。
 席に戻り、やっと自分の仕事に取りかかる。四月は教職員の異動や子どもの転出入があるので、事務の仕事は比較的忙しい。書類のデータは去年のものを使い回しできるけど、なにせ数が多いのでそれなりに時間はかかる。そんな四月の忙しさも、ようやく少しずつ落ち着いてきた。
 淡々と事務作業をすること自体は、嫌いじゃない。むしろ性に合っていると思う。でもときどき、ほんのときどき、ここに座っているのはわたしじゃなくてもいいんじゃないかな、と思ってしまうことがある。
 職員室の自分の席、教頭先生と教務主任の先生と同じ並びの端にある席も、なんか偉い人たちが座る場所みたい、と緊張したのも最初だけで、まる三年経った今はさすがにもう慣れた。でも、なんとなく身の丈に合わないというか、わたしにはこの席はふさわしくない、という漠然とした思いだけ、ずっと残っている。
 そういう自分を、めんどくさいな、と他人事のように思う。毎年同じことを同じようにするのがこの仕事だとわかっているのに、裏を返せば、だれでもできる仕事だと感じている。そのくせ、ただの座席の配置ひとつとって、身の丈に合わないものを恐れている。
 そういうふうに物事を見るようになったのは、いつからだろうか。ふっと頭上に雲がかかるような気持ちになったのを振り払うように、わたしは姿勢を正してパソコンのキーを叩いた。

 学校事務、という仕事を、わたしは就職するまで知らなかった。わたしが子どものころ通っていた学校にも、事務職員の人がいたのだろう。でも、当時は学校にそういう仕事をする人がいることを知らなかったし、その人たちの顔をきちんと見たこともない。
 この仕事を選んだのは、大学で就職活動を始めるころ初めて訪れた合同セミナーの熱気に気圧されてしまって、企業に就職してやっていく自信をなくしてしまったとか、公務員試験を受けるにしても市役所の窓口で接客する勇気がわかなかったとか、ほとんど消去法みたいな理由で、そういうことを考え始めると、わたしの気持ちはちょっとだけ迷子になる。



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