ウェブアンソロジー八天楼

青色のギョウザ

君野 新汰/著


 別に大した理由があったわけではない。強いて言えば、これ見よがしに晴れ渡っている空にむしゃくしゃしていたせいかもしれない。
 高校の始業式の帰り。いつも素通りするばかりだったその店の前で、彼女は足を止めた。
 プレハブ小屋のような、こじんまりした平屋建て。長年風雨にさらされた暖簾はぼろ雑巾のようで、午後の陽射しにかろうじて『八天楼』の文字を浮かび上がらせている。小さな町ならどこにでもあるような、それはごくありふれた――薄汚い中華料理屋だった。
 目を引くのは、その入り口だ。
『お気軽にお立ち寄りください!』
『美味しいよ!』
 アルミサッシの引き戸。水垢でくすんだそのガラス部分には、下手くそなマジック書きのビラが何枚も貼られていた。
『自慢のギョウザ、試してみてね!』
 文字の横にはギョウザが描かれていた。歪なおむすびのような形で、なぜか青色で塗られている。食欲がなくなりそうな絵だった。
 取手に指を掛ける。やたら重い手応えとともに耳障りな音が響いた。まるで戸が癇癪を起しているようだった。
 カウンター八席の店内には、予想通り客はいなかった。蠅すら飛んでいない。埃と油の匂いが鼻をつき、ぬるい空気が制服にまとわりついてきた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの向こう、厨房から店主らしき男が声を上げる。五十前後だろう。刈り上げた髪は清潔だったが、顔と体型はくたびれ果てていた。
 正面の席に腰を掛ける。ぎしぎし軋む椅子はカバーが破れ、黄色く汚れた綿が飛び出ていた。
 赤一色に塗られたカウンターの上にはやはりというか、ビラが重ね置かれていた。ラミネート加工されたそれらは、さらにべっとりと油でコーティングされている。
『下町の絶品中華!』
『各界大絶賛! 激うまギョウザ!』
 赤やら緑やら、けばけばしい文字が不揃いに並んでいる。よく見ると、どれも入り口に貼ってあるのと同じものだった。
『美味しいよ!』
 きっと、必死なんだろうな、何とかしようとあがいているんだろうな、きっと。そう思って彼女は。
 噴き出しそうになった。
 コトリ。
 ビラの隙間に水が置かれた。
「ご注文はお決まりですか」
 そう尋ねる店主は、善良を鍋で煮詰めて焦がしたような笑顔が浮かべていた。
 その顔を見て、しみで汚れた前掛けを見て、ぐるりと店内を見回して。ふと、右手の壁に真新しい色紙が一枚飾られているのに気づいた。サインがでかでかと楷書で書かれていたが、見たことも聞いたこともない名前だった。
「これじゃあ、お客さん来ないわけだ」
 彼女は呟いた。目の前の店主にも聞こえるぐらいの声だった。もしかすると、わざと聞こえるようにしたのかもしれない。
 油まみれのラミネートビラを手に取り、陽気な声で尋ねる。
「こういうの書いてる時、どんな顔とかしてるんですか? 恥ずかしくなったりとかしません?」
 善良な笑顔のまま、店主は凍り付いていた。
「みじめになったりとかは?」
 その鼻先でビラをひらひら振る。
「これで本当にお客さんが来るとか思ってます?」
「この前」
 慌てたように店主が遮った。犬に追い立てられる羊の鳴き声のような、間の抜けた声だった。彼女が黙ると、彼は壁の色紙へ目を遣った。
「来たよ。有名なユーチューバーらしくて。動画にもなったんだ」
 ひと息ついてカウンターへ顔を戻す。どうだと言わんばかりの、得意げな表情が浮かんでいた。
「すごいだろ?」
 彼女は席を立った。脳裏には青く塗られたギョウザが浮かんでいた。食欲のなくなりそうな、青色のギョウザ。
 店主が俯き、カウンターのコップを手に取った。それを気にも留めず、彼女はつい先ほど開けたばかりのガラス戸を引いた。ほんの数分前には癇癪を起こしていたそれは、今度は音もなく滑った。店を出る。引き戸を閉める間際、何かが砕け散るような鋭い音が奥から響いた。空を見上げる。相変わらず冗談みたいな快晴だった。
 それからしばらく、彼女は店のことを綺麗さっぱり忘れていた。店は書き割りの一部となり、前を通っても意識にのぼることはなかった。
 ある日、気づくと店の前に行列ができていた。
 店の佇まい自体は変わらない。薄汚いプレハブ小屋。ただしガラスは綺麗に磨かれ、暖簾の代わりに電飾スタンドが店先に立てられていた。赤字の店名の横に貼られたビラには『女店主が鍋をふるいます』というキャッチコピー、そして各種SNSのアドレスがポップな字体で印刷されていた。
 特に感慨は湧かなかった。けれど、せめてギョウザを食べておけばよかったかも、とは思った。青色のギョウザ。ちょっとした話のタネになったかもしれない。
――ま、いっか。
 店から視線を外し、彼女は歩き出した。


〈了〉



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