ウェブアンソロジー八天楼

八天楼エビチリ殺人事件(未満)

栗原夢子/著


 中華料理屋の床がつるつるしている理由を、どなたかご存知だろうか。その理由を、私は知らない。
 中華料理は油を多く使用するから、と言うのであれば、油で汚れるのは厨房の床に限られるのではないだろうか。料理を運んで来る際、靴の裏に付着した油も店内に運ばれる、というのは理解できるが、料理人が厨房から出て来ず、カウンターの端で暇そうにしているアルバイトの少女が料理を運んで来るのであろうこの店では、一体どうして、テーブルで待っている私の足下がつるつると滑るのか。
 中華料理というのは、本当は床で食べるのが正しい流儀だったりするのだろうか。それも盛大に、周囲に油を撒き散らしながら食べるのが。そうであれば、厨房のみならず、客席のフロアまでもがつるつるとしているのも納得だ。私もその流儀に倣って油を飛び散らせながら、床で餃子を頂こうじゃないか。
 そう思ったものの、私は中華料理を床で食べた経験などない。初めてのことに挑戦するのは、少なからず勇気がいるものだ。できれば先人たちの様子を観察し、見様見真似で取り掛かりたいところであったが、平日の、昼時でもないこの時間帯、店にいる客は私だけであった。
 ひとりなのにカウンター席ではなく、四人掛けのテーブル席に座っているのは、私が今まさに煙草を吸っているからだ。窓際のこの席には灰皿が用意されていた。細く開けられた窓から、紫煙が逃げるように店外へ流れていく。
 窓の磨りガラスは外の世界を不明瞭にしていたが、そんな窓も開けてしまえば、その向こうには壁しかないということが丸わかりだ。隣の古びた雑居ビルが目の前にまで迫っており、腕を伸ばせばその壁に触れることができそうだった。この店からの眺めは味気ない壁だけ。壁好きには最高のロケーションだ。私がそうでないことだけが残念である。
 灰皿へ煙草の灰を落とした時、テーブルに掛けられたテーブルクロスが異様にべたべたすることに気が付いた。色褪せたのか、申し訳なさ程度に薄ピンク色したテーブルクロスは、私がこの店に入ってきた時、アルバイトの少女がせっせと拭いていたような気がしたが、その程度のことではめげない頑固な油にコーティングされているようだ。
 私はテーブルクロスを指でなぞりながら、どうしてべたべたしているのか、その理由について考える。
 中華料理は床で食べるのが正しいと考えていたが、もしかすると、席に着いて食べてもいいのかもしれない。肝心なことは、床かテーブルか、ということではなく、油を撒き散らして食べる、ということではないだろうか。つまりこの店には、テーブルクロスがべたべたになるほど、油を撒き散らして食事をしてきた客たちが無数にいるという訳だ。客たちが流儀を守り、様式美を愛して食事を重ねていった結果、今こうして、私の指先は不快なのである。
 最悪だ! 歴史の重さ、クソ食らえ!
 私は突然腹の底から叫び出したくなる衝動に駆られ、それを抑えるために意味もなく煙草をふかした。煙草を吸うと落ち着くのかというと、そんな訳はない。そもそも私は、煙草が美味いと感じたこともない。どうしてこんなものをわざわざ吸わなければならないのか。なら吸わなければいいじゃないか、と思われるかもしれないが、それでも吸ってしまうのがスモーカーの悲しい性だ。吸いたくなくても吸ってしまう。それが中毒というものだ。
 床はつるつる、テーブルもべたべたのこの店では、気が休まる暇がありそうになく、私はまた意味もなく、店の中を見回す。
 厨房に面したカウンター席。店の入り口から最も離れた席には、椅子が一席分置かれていない。その空間はアルバイトの少女が暇そうに佇む場所になっているようであったが、その少女は今いない。調理場の奥にいる男に呼ばれ、何か食材を買いに出て行ってしまった。
 厨房にいる男こそがこの店の料理人であるらしく、まさに今、注文したエビチリと納豆チャーハンとトマト餃子を作っているはずだが、私が座っている位置からその姿は見えない。
 入店した時にちらりと見えたその料理人は、まったく覇気を感じさせない、枯れススキのような風貌の男だった。風が吹いたら倒れそうなあの男が、客に激辛の料理を振る舞うのだろうかと、私は壁に貼られたメニューの数々の中に「火を噴く美味さ! 辛い! 美味い! 激辛麻婆豆腐」という文句を見つけて疑問に思う。そんな辛いもの、あの料理人なら味見でもしただけで、倒れてしまいそうじゃないか。
 店内の壁には黄色いメニューがお札のように何枚も貼られ、一枚一枚に妙に角張った字で料理名が記してある。角張っているのは恐らく、マッキーの極太で書いたからに違いない。その証拠に、レジ横のペン立てにはマッキーの黒と赤が二本並んで立っている。
 カウンター席へと目をやると、レジに最も近いところに、見慣れないものが置いてあった。それはガラスの瓶のようで、中は水で満たされており、その中心に大きな花が咲いている。あれはなんだろう。花の茎だけが水に浸かっているのであれば、それは普通の花瓶であろうが、そうではなく、水中で花が花弁を広げている。見たところ、花は生花ではなく、造花のようだ。飾りだろうか。
 飾り?
 飾りが置いてある? この店に? 飾り気のないこの店に、飾りが置いてある?
 あの枯草のような料理人が置いたのか? それとも、陶磁器のような顔をしたアルバイトの少女か? 見たところ、この店には従業員がそのふたりしかいないようであるが、ふたりとも、花を置いた人物とは思えなかった。料理人は厨房の中にしか興味がなさそうな様子であったし、少女は与えられた業務を全うすることだけが使命、という様子であった。ビルに挟まれた立地に建つ、景観が悪いこの店に、一体誰が、客の目を楽しませようと用意した飾りだと言うのだろう?
 恐らくは、誰かいたのだろう。この店には他に誰かがいた。そしてこの店は、その誰かを失った。そうに違いない。
 私がそう結論づけ、吸い終わった煙草を灰皿に擦り付けている時だった。鈴の音が聞こえた。
「ヘイスティングス!」
 私は咄嗟に友の名を叫んだが、音がしただけで周囲にその姿は見えない。否、見えるはずはない。私はその友の姿を見たことは一度もないのだから。しかし彼は必ずいる。いつだって、私のすぐ側に。
 油まみれの店内に辟易し、気を紛らわせようと物思いにふけっていた私は、そこではっと気付く。
 音がしない。鈴の音はもう止んでいたが、その音のことではない。
 厨房から、料理をしている音がしない。料理が完成したのか? だとしたら、それを皿に盛りつけてここまで運んで来てくれてもいいじゃないか。こっちは朝から何も食べていなくて、極度の空腹なのだから。それとも、材料が足りなくなって調理を中断しているのか? あの少女が買いに行った食材とはなんだったんだ? トマトか? それとも納豆か。まさかエビってことはないだろうが、頼んだ料理が悪かったような気もしないことはない。偏食な訳ではなく、人気のなさそうなメニューから注文してしまうのが癖なのだ。
 私は無意識のうちに椅子から立ち上がっていた。何か、嫌な予感がする。右手の三本の小指が引きつったように震えていた。悪いことが起きるような気がする。いや、もしかしたらもうすでに、それは起こってしまっているのかもしれない。
 左手で右手の震えを押さえながら、油でつるつるの床を慎重に歩く。ちりん、ちりんと、私のすぐ後ろから友がついて来る音がする。振り返ってもそこには何もいやしないというのに、その音だけはちゃんと聞こえる。
「すみません」
 私は厨房に向かって歩きながら、そう声を張った。しかし、返事はない。厨房の中から、なんの音も聞こえてこない。おかしい。さっきまで、そこには料理人がいたんじゃなかったか。
「すみません、誰かいませんか」
 左手でいくら押さえても、三本の小指は震え続けている。ちりん、ちりんと、鈴の音が鳴り止まない。私はカウンター席のテーブルに両手を突いて身を乗り出し、厨房の中を覗き込んだ。
「すみません、誰か……」
 言いかけて、思わず口をつぐむ。
 死んでいた。
 料理人の男が、頭をかち割られて死んでいた。まるで床の油に足を取られてひっくり返ったような姿勢で死んでいた。飛び散った頭の中身とおぼしき何かが、どことなくエビチリに見えた。私は確かにエビチリを注文したが、料理人、お前がエビチリになれと言った覚えはない。
「参ったな……」
 男の頭の側には紹興酒の瓶が転がっていた。血がべっとりと付着している。厨房のコンロには中華鍋が乗ってはいたが、火は点いていなかった。料理人はきちんと火を消してから死んだのだろうか。火の元の確認を怠らない、料理店の店主らしい死に様だ。その中華鍋の中には、私が注文した納豆チャーハンの具材がぶち込んであるようだが、生憎、まだ炒められていないようだ。このままだと、納豆チャーハンではなく、ただの納豆ごはんだ。
「うーん、参った参った……」
 厨房を見渡してみたが、注文していたトマト餃子は、まだこの空間に存在していないようであった。やはり、あの少女が買いに行ったのはトマトだったのだ。トマト餃子がメニューにあるにも関わらずトマトを切らすとは、よほど注文されない珍味に違いなかった。そんな珍しい料理であるならば、ぜひ実食してみたかった。しかし、それも永遠に叶わない。料理人の男は、頭をエビチリにして死んでしまった。少女は恐らくトマトを買って戻って来るだろうが、彼女がトマト餃子の作り方まで教わっているとは思えなかった。やれやれ、これでは私が今日頂くのは、油の染み込んだ納豆ごはんと、スライストマトといったところか。さすがに、店主の脳味噌でできたエビチリは食べたいとは思わない。
 それにしても、この男はどうして死んでいるのだろう。足を滑らせ紹興酒の瓶に頭を打ち付けたにしては、静かすぎる最期じゃなかったか。いくら私が物思いにふけって煙草をふかすことに集中していたとはいえ、さすがに人間ひとりが死んだ音くらいには、気付きそうなものだが。
 そう、それはあまりにも静かすぎた。不自然なほど、静かだった。はたして、本当にこの男は生きていたのだろうか。私がこの店に来るずっと前から、ここでこうして死んでいたのではないかとすら思えてくる。いやしかし、この男は生きていたはずだ。アルバイトの少女を厨房の奥から呼び、何か買いに行くように指示をしていたではないか。だとすれば、人知れずひっそりと、ここで死んだということか? 風が吹けば倒れそうな男だとは思っていたが、換気扇が回っているだけで窓も開いていないこの厨房で、風もないのに倒れたと言うのか。ススキ以下ではないか。お前はそれでも人間か?
 男が床に転倒した音どころか、紹興酒の瓶に頭を打ち付けた音さえも聞こえなかった。最近の紹興酒の瓶には、消音装置でも付いているのか? そもそも、人間の頭が砕けて中身をぶちまけるほど、紹興酒の瓶というのは硬度があるものだろうか。人間の頭はエビチリになったのに、見たところ、瓶は割れてもなければ、ヒビが入っている様子もない。
 不自然だった。何もかもが不自然だった。床がつるつるしているのも、テーブルがべたべたしているのも不自然には違いなかったが、この厨房の様子は、それらを超して不自然だ。
 本当に、男は転倒したのか? 中華鍋が乗せられたガスコンロの火を止めて、足を滑らせたのか? あの紹興酒の瓶は、本当に男の頭を砕いたのか? あれではまるで、本当の凶器を隠すためのカモフラージュであるかのような……。
 その時だった。
 からん、と。
 乾いた音が背後から聞こえた。思わず振り向いた。その音は、私がさっきまで座っていたテーブルから聞こえた。テーブルの下の暗がりから、ころころと転がり出て来るものがある。
 思わず、息を呑んだ。
 それは金属バットだった。熱心な野球少年が毎日ホームランを打つ練習を重ねた結果のように、ある一箇所だけが不自然なほど大きくへこんだそのバットは、やはり血で濡れていた。
 どうしてこんなところに、血飛沫を浴びたバットがあるのか。そこは、私が座っていた席だ。足下の床がつるつるすることに嫌気が差しながら、煙草をふかしていた席だ。さっきまで、そんなものはそこになかった。いや、わからない。私が腰掛けたのと反対側、テーブルの脚にもたれかかるようにして、その金属バットは立っていたのかもしれない。それが今、何かの弾みで倒れて転がり出て来た、そういうことではないのか?
 そしてあのバットが、あのバットこそが、料理人を撲殺した凶器なのではないか? だとすれば、紹興酒の瓶がただ血で濡れているだけで割れていないことの理由になる。私は真の凶器が自分の座るテーブルに隠されているとは知らず、のんきに煙を吸ったり吐いたりしていたのだ。なんと愚鈍であることか。
 いや待て、料理人を殺した凶器がサイレンサー付きの紹興酒の瓶ではなく、あの金属バットだとして、料理人はいつ死んだ? 男の頭がエビチリにされる音を聞いたか? 金属バットにもサイレンサーが付いていると言うのか?
 私がテーブルに腰掛けてから、このテーブルに近付いてきたのはアルバイトの少女だけだ。あの時、彼女は水の入ったコップを運び、注文をメモに書いて去って行った。その間、彼女が私のテーブルに金属バットを隠すことは可能か? いや、限りなく不可能だ。いくらなんでも、右手でペンを持ち左手でメモ用紙を持っている状態で、バットをテーブルの陰に置くことなどできない。私に右手の小指が三本あるように、あの少女には腕が三本あるのならともかく。
 だとしたら、金属バットは私が席に着く前から、テーブルの陰に置かれていたことになる。しかしそれでは、バットで料理人の頭を殴れない。まだ使われていない凶器に、被害者の血液が付着することはない、それが未来から持ち込まれた凶器ではない限り。それとも、あの金属バットに飛び散っている血液は、料理人のものではないのか? 何か別のものを撲殺したバットがテーブルに隠されていて、料理人はやはりサイレンサー付きの紹興酒で頭を打って死んだのか?
 待て。待て待て待て。落ち着け。冷静になれ。料理人は死んでいる。さっきまで、納豆チャーハンを作ろうとしていた彼は、その調理途中で死んでいる。不慮の事故とは思えない不自然さで死んでいる。装うように置かれた紹興酒の瓶。真の凶器ですと言わんばかりに現れた金属バット。私のテーブルから転がり出て来た金属バット。誰が? 誰がこのバットを隠した? 誰がこのバットでホームランの練習をした? 店の従業員はふたり。アルバイトの少女は買い出しに出掛け、店に残されたのは料理人と、客である私、ただひとり――。
 私の席から転がり出て来た金属バット。
 私の。
 私、の。金属バット。
「……参った参った参った参った」
 これでは。
 これではまるで、私が料理人を殺したかのようではないか。
 ちりん、ちりんと、鈴の音がする。そうだな、ヘイスティングス。我が友よ。
 さぁ、事件の時間だよ。



 厨房には裏口のドアがあり、開けてみると、そこは四方を雑居ビルに囲まれた、ほんの小さなスペースしかなかった。裏庭とも空き地とも呼べないであろうその空間には、劣化してあちこちが欠けたプラスチックのビールケースと、煙草の吸殻がいくつか転がっているだけだ。一日中、陽が射さないのか、生えている雑草までもが場所に似て貧相だった。
 見上げた雑居ビルは一階と二階部分に窓がなく、三階から上階には窓があるが、見たところ、開閉できるものではなさそうだった。それは窓と言うよりも、壁の四角い穴に磨りガラスを嵌め込んでいるだけと言った方がよさそうだ。あの窓を割り、ロープでも垂らせば、雑居ビルからこの狭い空間に着地して裏口から侵入し、厨房で料理人を撲殺した後、また元のように雑居ビルの中へと戻ることも可能なように思えたが、生憎、割れている窓などひとつもない。
 店の奥にはトイレと、これまたやたら細長くて狭い部屋があり、後者は物置きのようで、段ボール箱がなんの脈絡もなくごちゃごちゃと置かれていた。そのどちらにも、外と行き来できるような窓はない。念のため、床下や天井裏も調べてみたが、秘密の通路らしきものはないようだ。
 私が座っていたテーブルから店の入り口は見えているし、裏口や窓からの侵入も難しいとなると、私に知られずに何者かがこの店に侵入し、料理人を撲殺することは不可能だ。
 しかしそれでは、彼はどうやって殺された? まさか本当に、足を滑らせて転倒し、紹興酒の瓶で頭をエビチリにしたのか? 百歩譲ってそうだとして、ではこの金属バットはなんだ? 本当は、私はこのバットを携えて来店し、アルバイトの少女が買い物に出た後、厨房に入って料理人を撲殺、ガスコンロの火を止め、紹興酒の瓶をそれらしく置き、戻って来てテーブルの陰にバットを隠し、何食わぬ顔で煙草を吸い、それでふと我に返ったのが今、というだけではないのか。
 いや。いやいやいや。そんなことは。そんなことはあるはずがない。私が一体どんな理由で、この店の主を殺す必要がある? 床がつるつるするという理由か? それとも、テーブルがべたべたするという理由か? あり得る。私なら、それだけで店主を殺すのに充分すぎる理由になる。いや、いやいやいや、たとえ理由になり得たとして、私は彼を殺したか? いや、殺していない。殺していないのだから、私が殺した訳ではない。殺した訳ではないはず。
 落ち着け。いや落ち着けるはずがない。私が殺したのかもしれないのだぞ。いや殺していないのだから落ち着け。しかし今、誰かが店に入ってきて、この状況を見たらどう思う? 厨房には撲殺された男。血の付いた金属バットが転がっている側のテーブルで煙草を吸う私。どう見ても私が犯人ではないか。いやしかし、私ではない。私ではないのだ。
 もしかして、私は誰かに嵌められているのか? 誰かが私を殺人犯に仕立て上げようとしている? 一体、誰が? 私を知る者なら恐らく誰もが、私を殺人犯にすることよりも、殺してしまうほうが容易いとわかっているはず。わざわざ私を窮地に立たせて、困らせようとするのは誰か。
 いや、違う。そうではない。もしも誰かが、料理人を撲殺し、その罪を私に擦り付けようとしているのだとして、一体いつ、どうやって、料理人を殺したのかがわからない。結局のところ、彼を殺すことができるのは私だけなのだ。アルバイトの少女はいない。店には料理人と、私しかいない。
 待て、待て待て待て。本当にそうなのか? 私が来店した時、店に客は誰もいなかった。少女はテーブルをせっせと拭いていた。料理人は厨房にいた。しかしそれは、他に誰も店内にいなかった、とは断言できないのではないか? 私が勝手に、店には三人しかいないと思い込んでいただけで、厨房にもうひとり、隠れていたのかもしれない。私の席からでは、厨房の中はよく見えない。死角はある。死角があるからこそ、私は料理人が死んだことにすら、気付かなかったのだ。
 だがしかし、厨房に私の知らない誰かが潜んでいたとして、その人物はどうやって料理人を殺した? 彼が倒れた音さえも聞こえなかった。死体をゆっくり倒したから目立つ音がしなかったとしても、人間の頭部をエビチリにするのをどうやって無音で行う? 銃器だろうが鈍器だろうが、そんなことが可能だろうか。
 それとも、最初から料理人はあそこで死んでいたのか? 私が来店する以前から彼はすでに頭部をエビチリに調理され済みで、何者かが料理人になりすまして厨房にいた。死体が転がっていることを巧みに隠し、アルバイトの少女が出掛けた後、なんらかの方法で厨房から消えた。しかし、だとすれば、少女はどうして料理人が別人と入れ替わっていることに気が付かない? ふたりは双子だったから? それとも、あの少女もグルなのか。そして、犯人はどうやって厨房から消える? 裏口を出ても四方をビルに囲まれている。ビルの壁をよじ登って? 犯人は妖怪蜘蛛男か? それとも蛞蝓男か? 上空に待機していたヘリコプターから梯子を下ろし、それに捕まって空の彼方へ消えたとか? ヘリコプターじゃなくてもいい、よく訓練されたタカの大群とか……タカの調達が難しければ、カラスでも構わないが……。
 まずい。まずいまずいまずい。これでは、「私が料理人を撲殺したのだが、その記憶をすっかり失っているだけ」という説が、最もそれらしくなってしまうではないか。なんていうことだ。何か証拠を探さなければ。私が殺したのではないという証拠を、見つけなければ。
 凶器は金属バットだと仮定しよう。このバットには私の指紋は付いていない。触れていないのだから当たり前だ。よって、私は犯人ではない。金属バットを触らずに、料理人を殴り殺すことなどできない。
 いや、できる。指紋が付かないように、手袋をすればいい。手袋なんてしなくても、カウンターの隅に忘れられている布巾、アルバイトの少女がテーブルを拭くのに使っていたあの布巾越しにバットを握れば、指紋なんて付けなくても人間の頭部をエビチリに調理することはできる。いや駄目だ駄目だ駄目だ、どうして私が犯人ではない証拠を見つけようとして、私が犯人である可能性を見つけてしまうのだ。私は殺人犯になりたいのか? 殺人犯なのか?
 落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け。落ち着いていられなくてもとりあえず落ち着け。一度でいいからとりあえず落ち着くんだ。落ち着いたか? そう簡単に落ち着けるか。そうだよな、わかるぜ。でも今はとりあえず落ち着くんだ。そう。そうそう。いい感じだ。席に着いて、煙草を咥えて、火を点ける。なんで今、火を点けたんだ? 煙草が吸いたいと思ったのか? この状況で? 悠長に煙草なんて吸っている場合なのか? 吸いたくなくても吸ってしまう。スモーカーの悲しい性だな。私は私が悲しいよ。
 厨房に死体が転がっているこの店では気が休まる暇がありそうになく、私は懲りずに意味もなく、店の中を見回す。
 カウンター席。壁に何枚も貼られた長方形の黄色いメニュー。入り口近くに置かれたレジ。その横のペン立てには、マッキーが二本。
 なんだこれは。既視感。いや既視感と言うよりも、さっきからずっとこの空間で、この風景を眺めている。私はさっきも店内を見回していた。そう、この席に座って、煙草を吸いながら、こんな調子で店の中をあれこれ見つめていたんだった。床のつるつるに嫌気が差し、テーブルのべたべたに寒気がして、それで気を紛らわせるために、目線をあちこちに走らせていたのだ。
 レジに最も近いカウンター席に、見慣れないものが置いてある。それはさっきも見たはずであるが、何度見ても見慣れないものだ。ガラス瓶のようであるが、中は水で満たされており、その中心、水中で花が咲いている。そう、なんだかわからない造花だ。水中の造花。飾り。飾りが置いてある。
 さっきは、この店に飾りがあることに違和感を覚えたのだ。誰がこの飾りを置いたのだろうかと考えていた。地下鉄の駅前にあるのに、どこか下町みたいな調子外れのこの店に、誰があんな飾りを。誰が。一体、誰が。飾りを。
 飾り、を――。
 ちりん、ちりんと、鈴の音がした。
 そうか。そうだな、ヘイスティングス。
 事件の時間は、もう終わりにしよう。そろそろ空腹で死にそうだ。
 厨房には死体がひとつ。誰が殺したのかわからない死体。殺人者はどこから来て、どうやって殺し、どこへ消えたのか。さっぱりわからないが、それでも死体はひとつ。音も立てずに生まれた死体。人間の死というものは、人間の命というものは、もっと騒々しいものだ。質量があり、熱量があり、音量があり、存在しているはずだ。そんな存在していないような死は、存在していないような生は、存在してはいけないんだ。そんなもの、存在しているはずがない。存在してはいけないものが存在している。すべてが不自然であった。だから私が正してやろう。すべてを自然に帰してやろう。
 私が殺したとしか思えない状況ならば、私が殺していないとしか思えない状況にするしかない。どうしてそんな簡単なことにも気が付かなかったのだろう。私は料理人を殺したのか? 殺していない。殺していないのだ。だから、誰も死んでいない。最初から、死体なんかなかった。死体なんて存在しない。誰も死んではいない。誰も死んでいないのだから、私も殺していない。そうだろう? なぁ、我が友よ。
 私は灰皿で煙草の火を揉み消すと立ち上がった。つるつるの床を慎重に歩き、カウンター席に近付く。そして先程と同じように、カウンターに両手を突いて厨房の中を覗き込み、頭からエビチリを撒き散らして倒れている彼に向かって、こう言った。
「すみません。そろそろ、死んだ振りはやめてもらえませんか。腹ペコで私が死体になりそうだ」
 料理人は、
 頭からエビチリを撒き散らして床に倒れたままの料理人は目を開けて、見下ろす私の顔を見た。
「なんだ。やっと気付いたのか。こっちも腰が痛くて死にそうだよ」
 頭がエビチリの男はそう言って、ニヤっと笑った。



 結局、すべては茶番だった。死体なんて、初めから存在していなかったのだ。
「あんた、この通り沿いにある佐久間探偵事務所の新入りだろ。佐久間先生に頼まれてね。あんたが来たら、一芝居打ってくれって言うもんだから」
 頭がエビチリになっているカツラを外した料理人はそれだけ告げると、さっさと調理を再開して、あとは語ろうとしなかった。さっきまで死んでいたとは思えないような何食わぬ顔で、黙々と鍋を振るっている。風が吹いたら倒れそうな男だと思っていたのに、意外と面の皮は厚いようだ。
 私が料理人に声をかけた途端、アルバイトの少女は店の入り口から飄々と入って来た。買い物してきた様子もなく、私の顔を見ると少し気まずそうに、そして恥ずかしそうに、舌を出して笑った。
 少女は買い出しに行った訳ではなく、実際は店を出てすぐのところで、隠れていたらしい。厨房の死体(に扮した料理人)を見つけた私が、もしも半狂乱で店の外へ飛び出したり、警察を呼ぼうとしたりしたのなら、それを即座に止めるため、ずっと店内の様子を窺っていたようだ。
「びっくりした。お客さん、死体を見ても叫びもしないし警察も呼ばないし、お店の中をあちこち見て、テーブルでのんびり煙草吸っているんだもの」
 少女が笑いを堪えているような顔でそう言ったので、私は何ものんびりしていた訳ではなく、頭の中では目まぐるしくあれこれいろんなことを考えていたのだけれど、案外顔には出ていないものなのだろうか、と考えていたのだが、彼女が付け加えるように、「全部、京助先生が言った通りだった」と言ったので、やれやれ、結局、私はあの偉大な探偵、佐久間京助に仕組まれた舞台の上で踊る道化師といったところのようだった。
 この店と同じ通りの片隅にある佐久間探偵事務所に私が就職したのは、つい先週のことだ。前の事務所をクビになった私を拾ってくれた佐久間京助には感謝しかないと思っていたが、捨てる神あれば拾う悪魔あり、ということだろうか。一杯食わされてしまったようだ。まだ、朝から何も食べていないというのに。
 それにしても、この店に来たのは初めてなのに、私が佐久間探偵事務所の新入りだとよく気付いたものだ。佐久間京助は私の顔写真でも渡していたのだろうか。ちょうど、履歴書に貼り付けた証明写真もあっただろうし。いや、違うか。そんなことしなくても、誰だって一目でわかるのか。右手の小指が三本もある男なんて、世の中にはそういないだろうから。
 仕事の合間に食事でもしようと思い立ち、ふらっと入った店でこんな珍事件に出くわすとは、いくら探偵業に従事しているとはいえ、夢にも思わなかった。この事件には、死体などなく、だから凶器もなく、紹興酒の瓶も金属バットもどちらも偽物に過ぎず、犯人がいないので侵入経路も逃走経路もない。そしてもちろん、私が殺した訳でもない。
 カウンターに置かれた、水中で咲く花。あの造花がなければ、私はこの珍事件を解決することができなかったかもしれない。あの偽物の花が、私を解決へと導いた。死体が偽物であった以上、いずれは辿り着いた解決だったのかもしれないが。しかし、この事件を仕組んだ佐久間京助は、そんなことまで予測していたのだろうか。
 ほんの些細なことが、誰かを救うこともある。ひらめきのきっかけになり得る。それがたとえ、どんなに他愛なく、一見なんの意味も持たないものに見えたとしても。
 そのことがわかっただけでも、私はこの店に来てよかったのかもしれなかった。今はそう思う。今はそう思いたい。今そう思わなければ、このやり場のない怒りにも似た感情を、どこへ向ければいいのかわからない。腹が減って死にそうだというのに、なんだか余計に疲れてしまった。
 あの造花をカウンターに置いた名も知らぬ誰かに、心から感謝したいところであるが、さて、こんな珍事件を企んだ、私の新しい雇用主へは、どんな仕返しをしてやろうかしら……。
「探偵事務所の新入りってことは、あなたも探偵なんですか?」
 カウンターにもたれるようにして、アルバイトの少女はそう尋ねてきた。料理が出来上がるまで、暇らしい。厨房では料理人が急ピッチで料理を作っている音が聞こえてきて、相変わらず客は私しかいない店内だが、先程までとは打って変わって、一気に騒がしくなってきた。
「まぁ、一応、探偵だよ」
 私は紫煙を吐きながらそう答える。佐久間探偵事務所では事務職として採用されたという事実は、黙っておくことにした。
「お名前は?」
「江瑠川 来栖」
 名乗ったが、少女は私の名前を聞いても不思議そうな顔をしただけだった。
「エルクルと呼んでくれ」
 私は投げやりにそう言って、窓へ向かって煙を吐く。
 窓の外は相変わらず隣のビルの壁しか見えない。薄暗い店内がますます暗く感じる。テーブルの下で足を組み替えようとして、靴の踵がつるりと滑った。厨房からは食欲をそそる、いいにおいが流れて来る。そろそろ、一品目の料理が出来上がってもいい頃合いだろうか。
 極度の空腹による胃痛と、口からよだれが溢れ出るのを堪えながら、料理が運ばれて来るのを、もうしばらく待つとしよう。そして、テーブルじゅうに、床じゅうに、いや、店じゅうに油を撒き散らしてやりながら、残さず綺麗に平らげてやるのだ。
 それが中華料理を食べる、正しい流儀ってもんなんだろう?
 なぁ、ヘイスティングス。
 どこかで、ちりん、ちりんと、鈴の音がした。


〈了〉



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