ウェブアンソロジー八天楼

ガーリックガール

伴美砂都/著


薄暗い中華屋の名は八天楼(はってんろう)という。どこが八でなにが天なのかわからないけど、なんとなく中華料理のお店という雰囲気の名前。そういえば八天堂というクリームパンのお店があったよな、と思いながらテーブルに頬杖をつこうとすると、向かいに座る男に、ちょっと待った、と芝居がかった動作で止められた。
 男はたしかサイキと名乗っていた。金髪で馬面の、チャラ男になり損ねたような風貌。頬と鼻の頭が赤く日焼けしている。

「ここのテーブルはヤバイから気をつけて」

 見るとテーブルは全体に油でギトギトと光っていた。パーマを当てた長めの前髪から覗く目が真剣だったので、笑ってしまった。

「半袖だから大丈夫」

 肘を上げて見せると、うん、うん、と頷く。でも、あまりにも真面目な顔をしているから、頬杖はやめておいた。

 サイキはたぶん美春の彼氏の友達だ。彼氏じゃなくて元カレかもしれない。合コンの数合わせといって呼ばれたので行ってみたら美春はその彼と破局の危機になっていて、なんだかんだあって現場には私とサイキだけが残された。ばかみたいだけど私にはほかに友達といえる友達もいなくて、美春はそんな私をときどき外に連れ出そうとしてくれるのだった。連れ出してくれてるのか、単に合コン要員なのかは、まあ、五分五分かなと思うけど。
 せっかく街に出たから本屋にでも寄って帰ろうと思っていたら、じゃあラーメン食べに行きませんか、と言われた。何がじゃあなのかわからないけど、そう言われたら久しぶりに、なんだかひどくお腹が空いたように感じた。

「サイキさんってどういう字なんですか」
「あ、犀です、動物のサイ、あと木は、木曜日の木」

 敬語で話したら敬語で返してくれたから、見た目ほどチャラくないのかもしれないと思った。


 バリバリとすごい音がして思わず戸口のほうを振り返った。八天楼には窓がない。戸口は磨りガラスになっていて外は見えないけれど、パッと光るのだけが見えた。

「雷だね」

 サイキが言うので、扉のほうから視線を戻した。サイキは相変わらず真剣な顔をしている。そうか、雷だな、と思ったら、それは言わなくてもわかるようなことなのに、そう言われたら少し、安心するような気がした。外からは続いて、ばたばたばた、と強い雨の音がした。

「雨だね」
「……、うん、私も、そう思う」

 言うとサイキは初めて少し笑った。むりに笑うのでもばかにしたような笑いでもない、静かな笑いだった。そうすると鼻の横に少し皺が寄った。


 店主と思しき小柄なおじさんが厨房から出てきて、ラーメンと餃子と、サイキがセットで頼んだチャーハンを運んできた。サイキは慣れた手つきで壁際に置かれたいくつかの瓶の中から、銀色の四角いケースを引っ張り出す。

「にんにく入れ放題なんだ、ここ」

 ケースにはすりおろしたにんにくが入っていた。結構な量のそれを備え付けのスプーンですくってラーメンに入れ、そのままこちらへケースを押してよこす。

「入れる?」

一瞬ためらったのを、サイキは私が(にお)いを気にしたのだと思ったようだった。意外とハミガキすれば大丈夫だよ、などと言う。

「……、うん、入れる」

 私がそう言ったのは少しの間があったあとで、サイキはもうケースを壁際に戻そうとしていたところだったけれど、あ、そう?、と言っただけで、もう一度こちらへケースを押してくれた。
 にんにくの臭いはしばらく嗅いでいなくても、ああにんにくだな、とすぐわかるのは不思議だなと思う。スプーン半分ぐらいだけすくって、スープのところにそっと入れた。白い短い繊維がひゅっとほどける。スプーンをケースに戻すとき少しだけ手が震えて、金属同士がぶつかってかちんと音を立てた。ふたを閉めて向かいを見るとサイキはもう豪快にラーメンをすすっていた。

 ラーメンはあっさりしていて美味しかった。醤油ベースのスープ。しばらく黙って食べた。サイキはあっという間にラーメンを食べ終えて、チャーハンをれんげですくっている。にんにくの臭いがふっと喉から鼻にのぼった。

「あのね」

 言うとサイキは顔を上げた。赤く日焼けした鼻の頭に少し汗をかいている。

「会社に、……私のね、勤めてる会社に」
「うん」
「……、」
「……」
「自分の身体から、にんにくの臭いがするって言って、言ってた、人がいた」

 サイキはこつんと小さな音を立ててチャーハンの器にれんげを置き、ふうん、そうなんか、となんでもないように言って、コップの水を一口飲んだ。うん、と私は答えた。また外から、ガラガラと雷鳴が聞こえた。

「あのね」
「うん」

 そのまま、しばらく黙ってしまった。サイキは少しの間、そのままでいて、私がしばらく経っても話しださないのをみると、にんにく、にんにくかあ、と小さく呟いて、もう一度にんにくのケースを開けてちょっとだけスプーンですくい、半分残ったチャーハンの上にちょんと載せた。

「え、その子はさ、にんにく好きなの」
「……、わかんない、……たぶん、きらい」
「そっか」
「……」
「……」


 あ、なんかさ、とサイキが言った。もうチャーハンの器も空になっていた。だから私も早く食べなければと思ったけれど、喉が詰まったようになっていて、箸を持ち上げることができなかった。

「彼女はさ、あ、彼かもしれんけど、気にしてたつうかさ、やだったんだよね、その、にんにく臭」
「うん」
「むしろ昼休みとかにさ、みんなで食えばいいんじゃね、にんにく、そしたら全員おんなじ臭いじゃん?」
「……、うん、でも、辞めちゃった、その子」

 あーそっかあ、そりゃ、残念だったな、とサイキは、さっきより小さな声で言った。茶化したり、大袈裟な言い方ではなく、落ち着いた声だった。

 自分の身体や口からにんにくの臭いがすると言って会社を辞めてしまった真野さんのことを思った。とてもきれいで、仕事もできた彼女。些細なきっかけで彼女に向けられるようになった嘲笑や悪口のことを思った。次は私かもしれないという思いが、小学校や中学校のときだけでなく、大人になってからも続くのだと知ったことを、思った。
 何度も手を洗い歯を磨きに行くようになった真野さんの背中に同僚たちからかけられた心ない言葉、そのとき一緒に笑うことができないのを知られないよう俯いていた私のことを、思った。最初のころきれいにネイルをしていた真野さんの手がガザガザに荒れていき、ファブリーズをかけすぎたスカートが少し湿るほどになっていったことを思った。
 真野さんが女子社員の間でいじめに遭うようになってから、一度だけ、階段の踊り場で話したことがあった。社員用のエレベーターが壊れてしまって、階段で移動しなければならなくなった日だった。同期入社の私の顔を見て、真野さんは、あ、と少し口を開いた。会釈してすれ違おうとした私に、あの、と真野さんは言った。

「わたし、……わたし、にんにく臭く、ないですか」

 彼女の身体からはにんにくではなく強い強いフローラルの香水の臭いがした。入社したとき発光するようにきれいだった肌は、踊り場の陽光の下で、老いた人のように疲れ切って見えた。彼女が何度も手を洗い歯を磨きブレスケアを噛み香水やファブリーズを使う理由を、私はそのとき初めて知った。
 そのとき、カタン、と上階から音がし、私は咄嗟に一瞬、そちらのほうを見た。視線を戻すと真野さんは、いいです、と小さな、小さな声で言って、そして、下の階へ降りて行った。そのことを、思った。あのとき、だいじょうぶですと私が言っていたら、どうだっただろうと思った。あのとき、階段で真野さんに会ったとき、上階にほかの人の気配を感じたとき私は、私はいったい、どういう顔をしただろうと、思った。


 ティッシュの箱がこちらに差し出されて、私は、自分がぐずぐずに泣いていることに気が付いた。サイキは箱をこちらへ押しながら、ごめん、ごめん、さっき変なこと言ったよな、俺、と慌てた調子で言って、そして、シュッシュッと何枚かティッシュを取った。それもこちらに渡されるのかと思ったら自分の鼻に当て、ぱっと壁のほうを向いて、ぶぇっぐしゅん、と派手なくしゃみをした。

「あ、ごめんね、俺、鼻炎だから、くしゃみすげえの」

 律儀に向こうを向いたまま、ぶんと鼻をかむ。私は自分でティッシュを取って涙を拭った。ティッシュの箱を押し返すと、ありがとう、と言われる。
 私はやっと箸を持ってラーメンの残りを食べた。スープはぬるくなっていたけど、しっかりした細麺だからか麺は思ったより伸びていなくて、同じように美味しかった。胸の詰まったような感覚は消えなかった。油断すると泣いてしまいそうな目の奥の痛みも、そのまま。
 苦しくて、息がうまく吸えなかった。でも、どうにもならないと思った。どうにもならないままで、いなければならないと思った。むりやり麺とスープを飲み込むと、喉の奥がぎゅっと痛んだ。

 ふと戸口のほうを見ると磨りガラスにうっすらと日が差していた。雨がやんだ、と思ったけれど、何も言わなかった。サイキも何も言わず、でも向き直ると彼の視線は私の肩口を通り越して、戸口のほうを見ていたから、たぶん、同じことを思っているだろうな、と思った。壁際に手を伸ばす。肘の少し下のところがテーブルに触れていて、離れるときペタッとした。

「もうちょっと入れる、それ」

 言うとサイキは、何事もなかったかのように、そう、と言って、にんにくのケースを私の取りやすいところへ移動させてくれた。そして、また横を向いて、へっ、ぐしゅん、ともう一回くしゃみをした。


〈了〉



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