ウェブアンソロジー八天楼

ぬれた靴

伴美砂都/著


 黒石緑が死んだのは三月の初めだった。葬儀が終わって外に出るとじゃびじゃびと雨が降っていた。真冬の雪の日より春の初めの雨の日のほうが寒く感じるのはなぜだろうか。折り畳み傘を開く。パンプスは防水加工であるはずなのに、薄手の黒のストッキングにすぐ水が滲みた。社会に出てもう八年ほど週五回も履いていても、ストッキングというものにはいつまでも「履き慣れない」という冠がついて外れない。

 緑は大学の同級生だった。名前はミドリではなくロクと読む。最初に会ったとき、ロクショウのロク、と言われて、えロクショウ、と聞き返したのを憶えている。

緑青(ろくしょう)
「なに、それ」
「しまっといた十円玉とかが緑色になるやつ」

 そう言って(ロク)はポケットからすっかり緑になった十円玉を取り出して見せた。子どものとき使った油粘土のような色だった。

 斎場から通りに出たところで名を呼ばれ振り返ると高木がいた。高木も大学の同級生だ。緑と高木と私の三人でよく学食で講義をさぼった。声はまったく当時のままだった。私の声も当時のままだろうか。顔は、お互い老けた。
 地下鉄の駅まで並んで歩き、駅前の薄暗い中華料理屋に入った。油でべたべたのテーブルに肘をつく。どうでもいいような話をしながら定食が来るのを待ち、どうでもいいような話をしながら、食べた。仕事はうまくいってるの、と訊かれて、うまくいってはない、と答える。たぶん高木は本当にそれを知りたいわけではない。

「緑に、会ってたの、最近も」

 ふと訊くとそこで会話が途切れた。ずび、と鼻水をすする音がして顔を上げると、高木は麻婆豆腐の丼にぼたぼたと涙を落としながら泣いていた。えぐ、と喉が音を立てる。

「俺、俺さ、一回だけあいつのこと、からかったよ、ホモって」

 テーブルのティッシュを何枚か引き抜いて高木に渡し、もう二枚取って、鼻をかんだ。頬に涙が伝うのを手で拭ったら、爪の先にファンデーションが少しついた。
 ヒュウと窓の外で風の音が鳴った。そちらを向いても曇ったガラスの向こうはよく見えない。ストッキングの爪先はもう乾いていた。


〈了〉

♪テーマソング(勝手に):スガシカオ「ぬれた靴」(アルバム「Sugarless」より)



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