ウェブアンソロジー八天楼

れんげ

マツ/著


 陽子が娘の名前を“椿”に決めたと告げたとき、母親は反対した。不吉だというのである。
「椿は散るときに、花が丸ごと落ちるだろ。侍の打ち首みたいで縁起が悪いって、昔から言われてるんだ」
「時代劇の見過ぎだよ」
「子供の幸せ願うんだったら名前も大事にしなよ」
「自分の子供もろくに幸せにできなかったくせに、なに言ってんだか」
 母は黙り、陽子も黙った。

 陽子は名前についての母の心配なんて翌日には忘れていた。思い出したのはそれから24年後、椿が自動車事故で死んだときだ。
 轢いた軽トラックのドライバーも轢かれた椿も不運としかいいようのない、どうすることもできない事故だった。誰も責めることのできない事故だった。
 陽子は葬儀場で唐突に、まるで昨日のできことのように、母とのやりとりを思い出したのだった。
“お前が椿なんて名前をつけたから”
 3年前に癌で亡くなった母の声が、陽子をなじった。
(どうして椿なんて名前をつけてしまったのだろう。他にも候補はあったのに。楓か紫にしていれば、死なずに済んだかもしれないのに。私が椿を選んだせいで)
 なぜ娘は死ななければならなかったのか? 辻褄の合う理由なんてどこを探しても見つかるはずはなかった。だから陽子は椿という名前が椿を殺したのだという考えにすがり、その名前を選んだ自分を責めることで、倒れそうな体を支えていたのかもしれない。
 とはいえ、それは、24年も先の話だ。椿が生まれたばかりの今は、陽子はもちろん、縁起をかつぎ過ぎるきらいのある陽子の母だって、まさかそんな日が訪れるとは夢にも思ってはいない。明日のことさえわからないような日々を乗り越えることで精一杯だった当時の2人にとって、24年後の未来など、別の銀河の、別の惑星くらい、縁遠い世界だ。
 けれど椿の誕生は、椿がいなくなる24年後の世界の誕生と同じことを意味した。椿がいない世界ではない。椿がいて、そしていなくなる世界の。その世界は椿とともに、一刻も休まず、猶予も躊躇もなく、正確に、確実に、近づき始める。そして少なくとも陽子は、いずれその惑星に、絶望とともに立たなければならなくなる。

 椿が陽子のお腹に宿って4週目に、彼女は椿をひとりで育てることに決めた。カレシの拓也と別れたからだ。ドトールコーヒーのいちばん隅の席で自分が妊娠したことを小声で告げると「別れたくないなら堕ろせよ」と、陽子よりもっと小さな声で拓也は言った。陽子はクリームパスタをフォークで巻きながら、じゃあ別れると答えた。
 なぜ産む方を選んだのか、陽子自身にもわからない。ただ、なんとかなるという自信だけはあった。女が女の子をひとりで育てるやり方なら、だいたい知っていたから。お手本は、陽子の母と自分自身だった。
 俗に母子家庭と呼ばれる自分の生育環境を、時に教科書に、時に反面教師にして、陽子は椿との親子関係を作っていった。(母親に構ってもらえない時間がいちばん悲しかったから)昼夜掛け持ちしていた仕事でどんなに疲れていても、椿と遊ぶ時間を確保した。(母親に殴られることがいちばん怖かったから)手をあげることはもちろん、声を荒げることもなかった。
 その努力が功を奏したのか、椿は陽子のように不登校になったり補導されたりすることもなく、穏やかに成長した。偏差値の高い公立高校へ進学したが、塾に通わせてもいないのに成績はいつも上位で、陽子の経済的な負担を軽くしてくれた。

 高校で行われた5月の3者面談の帰り道、陽子はすこぶる上機嫌だった。椿が志望する関東圏の市立大学の推薦入試について、教師が太鼓判を押してくれたからだ。
「たまには外食しようか。ちょっと早いけどさ」
 隣を歩く椿に、弾むような笑顔を向けて、陽子は明るく言った。ほんのすこしオレンジ色が混じり始めてはいたけれど、日差しはまだ強く、歩道沿いのケヤキを照らしていた。椿の白い肌の上で、葉の影がさらさらと揺れた。
 頬から顎にかけて、きれいな曲線を描く輪郭に、ショートボブがとてもよく似合っている。二重の大きな目にまっすぐ見つめ返されると、母親の陽子でさえどぎまぎしてしまう。
「いいよ。今日はバイト休みだし」
「じゃあ中華でいい?」
 陽子は道路を挟んだ反対側の歩道に並ぶ、雑居ビルと雑居ビルの間の小さな中華料理店を指差す。

 『八天楼』は、陽子にとって特別な店だ。普段の切り詰めた生活の中で、外食は幼い頃の陽子と母親にとって数少ない贅沢だったが、とりわけ陽子はこの中華料理店を気に入っていた。揚げたての唐揚げも、こんもりした半円のチャーハンも、羽根つきの餃子も大好きだったけれど、陽子が何よりも八天楼で楽しみにしていたのは、“れんげ”を使えることだった。
 チャーハンを食べる時やスープを飲むときに使う、陶製のスプーンのような器具は、家にないし、学校の給食でも出てこない。八天楼でだけ使える、特別な道具だった。
「ねえ、これなんていうの」
「中華スプーン」
 陽子の母親が適当に答えるのを聞いていた厨房の男が「れんげっていうんだよ」と教えてくれた。
「中華スプーンじゃないじゃん」
 陽子が不満げに突っ込むと、母親はむくれて不機嫌になった。カウンターの端に座っていた恰幅のいい女性の店員が笑いながら「中華スプーンでいいんだよ」と2人に言った。
「散ったれんげの花びらに似てるから散蓮華(ちりれんげ)って呼ぶらしいけどね、そりゃ日本人が勝手にそう呼んでるだけ。中国じゃただの匙。中国の匙だから中華スプーンで正解」
「だってさ」
 と陽子の母親は勝ち誇ったように言った。
 陽子は母親の機嫌が直って、ほっと胸をなでおろした。

 中2の頃には、もう母親と八天楼に行くことはなくなっていた。あの頃は最悪の時期で、2人はほとんど口も聞かなかった。今はずいぶんマシな関係にはなったけれど、それは自分が大人になったからで、あの人が大人になったからではない。そういう自負が、陽子にはあった。
 その自負に、さらに自信を与えてくれているのが椿の成長だった。
 あの子供みたいな母親に比べたら、と陽子は八天楼の暖簾を、感慨深げに見つめた。

 私はちゃんと、大人の母親になれた。

 10分後、陽子は椿と二人で八天楼のテーブルに座っている。
 陽子は椿におすすめは何、と聞かれ、チャーハンとワンタンスープを勧める。椿は素直にそれを頼む。陽子も同じものを頼む。白いれんげで、ワンタンをすくって口に運ぶ椿の顔を見る。
 1年後、大学に入れば椿も本格的に化粧を覚えるだろう。かたちの良い唇には、きっと濃い朱色のリップが似合う。美しい娘に育った椿を、そして育てた自分を、陽子はさらに誇らしく思うだろう。
 1年後。
 陽子が想像するのは、5月の日差しのように明るい1年後。そこまでだ。その先のことはわからないし、今はまぶしくて、その先のことなんて、見ようとしても、見えない。


〈了〉



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